慶應義塾保険学会常務理事
蟻川 滋
新型コロナウイルス感染が世界的に猛威をふるっている最中、政府による緊急事態宣言が発出された2020年4月に入院、手術をした。場所は東京新宿の国立国際医療研究センター病院。病名は心臓大動脈狭窄症、冠動脈狭窄、心房細動で、かなり悪化しているので直ぐに手術をした方が良いとのことだった。5時間半掛った。胸部を開いて胸骨を切開、一時的に心臓と肺の機能を代行する人工心肺装置を用い、心臓を取り出し、色々の血管を切ったりつないだりして、大動脈弁置換術、冠動脈バイパス、左心耳切除の3つを実施して、元のところに埋め戻し、骨を強力に固定し、何本かの管を体内に埋め込み縫い合わせた、という大きな手術であった。開腹でなくカテーテル挿入の手術もあったが、この方法を選択した。
14階の病室からは遙か遠くに郷里上州赤城山が見える。その左奥は三国山脈で、その手前が生誕の地、中之条町である。手術を前にふるさと方面を眺めていると様々な感懐が浮ぶ。同郷の故小渕恵三首相が最後を看取られたのがこの病院、初当選の恵三さんと帰省時の電車でたまたまご一緒し、世界を飛び回った話しを伺ったことなど思い出す。
当医療センター病院は新型コロナウイルス対応、日本の感染症対策の司令塔というべき病院で、著名人でも一般の患者でも等しく最善の治療を行なっている。とくに重症患者を抱えている病院でコメディアン、タレントの志村けんさんが息を引き取ったところである。通常のICU(集中治療室)の相当数病床をコロナ対応として完全に区切って使用していたので、手術後4日間過ごしたICUは臨時に設けられた場所であった。
1868(明治元)年に現在の帝国ホテル辺りにあった山下門内に設けられた兵隊仮病院が当病院の前身である。軍事病院は軍医総監が院長として任命され病院のみならず陸軍一般の医事を総括した。1929(昭和4)年に現在地の旧陸軍学校跡に移転。ここは江戸時代に徳川尾張藩下屋敷で壮大な庭園「戸山荘」があったが、明治に陸軍所有地となり陸軍関連の施設が設置されていた。1945年国立東京第一病院、2003(平成15)年に国立国際医療センターとして創設し、現在の国立国際医療研究センター病院となった。
誰でも閲覧できる資料展示室には、森鷗外(森林太郎)が陸軍軍医学校長時の執務机や第五福龍丸の模型など、さらにアトリウムには1894(明治27)年の東京衛戍病院時代の心臓僧帽弁不全閉症の診療記録などが展示されている。鷗外が愛用した机を眺めていると、感染症対応のパイオニア北里柴三郎と北里を全面的に支援した福澤諭吉との関係が気になってきた。
1888(明治21)年6月の写真(注)に、ドイツ留学中の森鷗外(陸軍)と北里柴三郎(内務省)が一緒に写っている。鷗外は代表作「舞姫」や「山椒大夫」など、有名作家として夏目漱石と並び称されている。軍医としては最高位の陸軍軍医総監、陸軍省医務局長の椅子についたものの、批判的に言及されている面があるが、その理由の1つにいわゆる脚気論争がある。
北里柴三郎は東大医学部講師緒方正規に弟子入り。緒方が脚気病菌を発見したと発表したが、北里はこれを誤りであると否定した。北里は正しいが、弟子が師に逆らったので東大では忘恩の輩として後々まで対立することになる。森鷗外は脚気感染症説をとり、北里を非難する論文や排斥する態度を取ったので後生批判されることになった。なお、北里と緒方は学問上の対立とは別に私生活での友情は続き、緒方の葬儀で北里が弔辞を読んでいる。
ドイツの細菌学の最高峰コッホのもとで破傷風菌やジフテリアに関する世界的業績を挙げた北里であるが、帰国後に東大での研究の道を絶たれた恵まれない状況下、内務省OBは福澤諭吉に助けを求めた。福澤は、すぐれた学者を擁しながらこれを無為に置くのは国家の恥だと、自分の所有地を提供し私財を投じて伝染病研究所を建設し支援した。北里は福澤没後の1917年慶應義塾大学医学部初代学部長就任、無給で医学部発展に尽くし福澤の恩に報いた。のちに日本近代医学の父と呼ばれる北里柴三郎は2024年に福澤諭吉に代わって金種は異なるが新札に登場することになっている。
1901年にノーベル賞第1回授賞が行われた。コッホの弟子でドイツ人が北里の破傷風研究の二番煎じにかかわらず国を挙げての応援で生理学・医学賞を獲得した。2015年ノーベル生理学・医学賞受賞の大村智北里大学特別栄誉教授は、今の新型コロナウイルス感染症に対して「薬が必要な状態になる前に、病気の芽を摘めるようにするための科学が重視されるべきだ。感染症の基本に立ち返り一人ひとりが先回りして自ら備えをしておく。北里柴三郎先生が唱えた予防医学の考え方とも一致する」と述べている。
ところで、執刀したのは東大出身の北里大学教授兼務で当病院の心臓外科のチーフ医師であった。5,6年前には当病院での大動脈狭窄症などの手術はなかったが、ここ数年にしっかりとした体制となったようだ。コロナ禍のなかで当病院の医療関係者、とくに心臓外科対応チームの知識、技術、親切心はもとより職場の雰囲気が大変明るいのには感じ入った。前例や現状のルールにしがみつかず、目の前の現実に対処している姿に深く感謝し安心して過ごせた一ヵ月間の入院生活であった。
(注)「明治二十一年六月三日 鴎外「ベルリン写真」の謎を解く」山崎光夫著
講談社 2012年