ランドセルの思い出

              アクサ生命保険株式会社

           ITデリバリー本部サービシング

井上由美子

 

 

 冬のこの時期になると、店頭にはカラフルなランドセルが並ぶ。古くは黒か赤が主流だったが、いまはパステルカラーやしゃれたパンチング模様、時にきらきら光る飾りなど、通学かばんのランドセルながら、バラエティに富んでいる。一時期海外セレブが写真投稿したり、外国人のお土産によろこばれたり、など、いまや従来の小学生のかばん、というカテゴリーを超えているように思える。

 

 そんなランドセルであるが、子供が小学校に入ったとき、軽量化しているものの本体の重量に加えて、教科書をいれたその重さにびっくりしたものだ。軽くて丈夫なバックパックでよいのではないか?と思い、画一化した「かばん」の利用にこだわる必要性を小学校副校長の友人に尋ねた。あくまで教育者である友人の個人の意見だが、紹介させていただく。

 

 いわくランドセル利用は、かばんとしての用途の他に、教育的指導の意味がある。たとえば、同じものを持つことによる平等、一定の形・容積のかばんにものを詰める練習、自分の荷物を自分で運ぶ自分のことは自分でやる気持ち、ある程度の重さを運ぶことによる身体鍛錬、6年間ものを大切に使う心を育てる、などなど。いやはや、小学校教諭とは大変な職業だと思った。

 

 しかし、いまどきのランドセルは、某有名かばんメーカーでは10万円以上。量販店には数万円でもう少し手の届きやすい品物もあるが、数万円以上するものを定番とするなど、これで平等説は無理がある。ランドセルを背負うことで身体鍛錬は、時代錯誤の感がありありだ。ときに5キロや10キロに及ぶ荷物を背負って運ぶことのほうが身体に悪影響を及ぼしそうであるし、実際そのような医療従事者の意見がいまや主流である。

 

 一方で、自分のものは自分で運ぶことや、物のつめ方・片づけ方等々は、本来家庭で指導すべきものだろう。つまりそういう生活面で必要なひとつひとつができないまま小学校に入ってくる児童が多いということなのか。教室で教諭が「はい、かばんにしまってください」と声掛けしたときに、カバンの形状がことなっていると一人ひとりのケアに時間がかかってしまう。ジッパーや異なった留め具があると、これもまた指導に時間がかかってしまう。つまり繰り返すが、幼い子供たちの細かい作業指導に教諭がかける時間がおそろしくかかる、だからワンパターンにしてほしい、ということなのか。ふとわが子は小学校生活を難儀なく送れるように家庭で指導できていたかを振り返って、苦笑した。

 

 さて現在拙宅の押入れには、ランドセルが6年間の役目を終えて保管されている。衣替えのたびに、場所をとるから処分するか、と検討するが、最終的にとっておこうとそのままにしてある。デジタル化や教育改革で、通学風景も変わってゆくのか。

 

 いまとなっては、当時の複雑な気持ちはさておき、ランドセルは子供の成長のシンボルとしてよかったのかな、とも思う。子供が小学校に入学する、という大切なマイルストーンを意味するシンボルだ。注文したときの笑顔、届くまでのわくわく感、学ぶ姿を想像しての幸福な気分、そして毎朝玄関を飛び出す子供の背中でゆれていたランドセルを思い出し、妙に愛着を感じている。

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