国民的人気ドラマで描かれた「生命保険の意義」

大同生命保険株式会社 ビジョン推進室長

藤井 大輔

 

先日(4月2日)、空前の人気を博したNHKの連続テレビ小説「あさが来た」が、惜しまれつつ最終回を迎えました。「今世紀最高の視聴率」(関東地区平均23.5%)を記録したという同ドラマでは、ヒロインが数々の苦難を乗り越え、嫁ぎ先である大阪の両替商「加野屋」を立て直す姿が描かれています。

 

ドラマでは、元大番頭の大ケガなどを通じて、加野屋の首脳陣がその社会的意義に気付き、生命保険事業に参入するシーンが登場します。ヒロイン・あさのモデルは、明治・大正期に活躍した女性実業家、広岡浅子。彼女の嫁ぎ先である大阪の豪商「加島屋(かじまや)」が生命保険事業に参入するに至った経緯はどのようなものだったのでしょうか。

 

1899年の初頭。銀行や炭鉱の経営に取り組むなど、加島屋の改革を進めていた浅子。日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立にも尽力し、実業家として最も多忙だった浅子らのもとに、ある相談事が舞い込みます。それは、加島屋当主が門徒総代格として深い関係にあった「真宗生命」からの経営支援要請でした。

 

明治20年代後半から30年代初頭にかけて、日清戦争の勝利がもたらした好景気による企業勃興ブーム。当時まだ新しいビジネスだった生命保険も例外ではありませんでした。

 

真宗生命もちょうどその頃、1895年に名古屋で開業しました。社名からも明らかなように、浄土真宗を基盤とした会社です。設立当初は順当な滑り出しを見せたものの、過度な募集競争と拡張路線により、経営は次第に悪化していきました。

 

そこで、真宗生命の経営陣は「社会的信用の回復こそが最優先課題」と考え、250年の歴史と名望を持ち、かつ西本願寺の門徒総代格として長く友好関係にあった加島屋(広岡家)に、経営支援を要請します。1899年のことです。

そして浅子らによるデューディリジェンスの結果、加島屋は真宗生命の経営権取得を決定。初代社長には浅子の義弟であり、加島屋当主の広岡久右衛門正秋が就任しました。

 

さて、浅子らはなぜ真宗生命の要請に応じたのでしょう。後年、当時の金融業界誌が次のように記しています。

「世の中には種々の事業があるが、社会救済の意味を含み、人民をして生活上の安定を得させる事業が生命保険であることは、誰も否定できないだろう。事業の根底には、社会の幸福を増進したいという精神が存在することは、誰も疑う事はできない、浅子はこの精神に共鳴したのではないだろうか。そうでなければ、未だ保険思想が幼稚で、“保険に入れば早死にする”という迷信さえ信じられていたこの時期に、保険会社を創設する理由はないのである。」
(「現代の女傑広岡浅子刀自(上)」『保険銀行時報』、1919年1月27日号)

 

また、初代社長となった正秋が参入を決意した理由として、後の社史で「生命保険事業が他の一般営利事業と異なり、相互扶助の精神を基調とする社会公益のための事業であることに強く心を動かされ、その経営に乗り出す決意をかため」と記されています。これは浅子をはじめする加島屋首脳に共通した想いであったのでしょう。

 

こうして、加島屋の新たな事業として生命保険が加わることとなりました。加島屋グループの一員となった真宗生命は朝日生命と名を変え(注:現在の朝日生命とは異なる)、1902年に小樽の北海生命、東京の護国生命と合併し、大同生命保険株式会社が誕生します。

 

広岡浅子らが生命保険業に託した「社会の救済と人々の安定」という想いは、創業から110余年を経た今もなお大同生命に受け継がれています。

 

<参考>特設サイト「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」

http://kajimaya-asako.daido-life.co.jp/

 

以上

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