With Cool Heads but Warm Hearts  Ⅳ   歐洲の政風人情:Dr. Gathererに捧ぐ

商学博士 真屋尚生

 

 

『福翁自伝』「歐羅巴各國に行く歐洲の政風人情」には、「外國政府の仕振りぶりを見れば・・・無理難題を仕掛けて眞實困って居たが、其本國に來て見れば自から公明正大、優しき人もあるものだ・・・」(福沢諭吉 『改訂 福翁自伝 慶応義塾大学第109回卒業記念』 岩波書店)との、福沢先生のヨーロッパ諸国に対する印象が記されています。この福沢先生の2度目の洋行より少し前の、19世紀前半のイギリスでの話です。当時のイギリスを代表する国民作家ともいわれ、社会評論家でもあったディケンズ(Charles Dickens)の代表作の一つ『オリバー・ツィスト』Oliver Twistは、日本でも何種類かの翻訳が出版され、海外ではたびたび映画化・ミュージカル化されています。この作品の導入部で、自らの体験をまじえて活写された救貧院(workhousepoorhouse)の悲惨な状況が多くの人びとの注目を集めるところとなり、イギリス福祉国家揺籃期における政策論議・制度改革に多大な影響を与えました。また、ディケンズとほぼ同じ時代に活躍した歴史家であり、評論家でもあったカーライル(Thomas Carlyle)は、その著『過去と現在』Past and Presentの中で救貧院を「バスティーユ監獄」に例えています。こうしたことからも、日本語では「救貧院」と訳される、文字面からは貧困者救済福祉施設のように思われがちなworkhousepoorhouseの実態が、どのようなものであったか、想像できるでしょう。救貧院は、犯罪者予備軍を内包する極貧層を社会から隔離する施設でもありました。日本では、かの鬼平こと火付盗賊改役・長谷川平蔵の献策で開設された加役方人足寄場が、救貧院に近い施設といえましょう。

 

 

ありし日のDr. Gatherer

(Green Templeton College, Oxford, HPより)

 

 

時間は現代に飛びます。私の20年来の共同研究者にして友人であったAlexことDr. Alexander Gathererが、201386日に84歳で遠く旅立ちました。彼は、公衆衛生の行政官・研究者として福祉国家イギリスの象徴ともいうべき国民保健サービス(NHSNational Health Service)に長年勤務し、1994年にDirector of Public HealthNHSを退くまでの後半の20年間は、オックスフォード大学のGreen CollegeWolfson Collegeにも所属して、行政と研究・教育の両面から公衆衛生の改善に尽力しました。今日ではかなり状況が変わったようですが、かつてイギリスでは最も優秀な医学生が公衆衛生を専攻していた、という話を耳にしたことがあります。きっとAlexもその1人だったのでしょう。彼は、公衆衛生、とりわけ受刑者の健康の改善に関する調査研究によって、イギリス国内外で多くの栄誉に浴しています。

 

その彼と私は不思議なめぐり合わせで、201461日付の本欄「Dr. Igar―向上心こそ人類の宝―」で紹介した五十嵐眞博士(Dr. Igar)―偶然にもDr. IgarAlexは誕生日が同じで、Dr. Igar1歳年長―の全面的な協力支援を得て、10数年間にわたる「健康と福祉」に関する学際的な日英比較研究プロジェクトを立ち上ることになり、その成果を『21世紀の地球と人間の安全保障健康と福祉』(英語版:Security of the Earth and Mankind in the 21st Century: Health and Welfare)ほか3冊の共同研究報告書として刊行しました。余談ながら、このプロジェクトには、若き日の本学会(現)理事長の堀田一吉さんにも一時期参加してもらい、国際シンポジウムやセミナーでの研究発表、さらには国内外での現地調査などで助けてもらいました。

 

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数年前にアメリカでの刑務所民営化を背景にした上杉忍訳『監獄ビジネス―グローバリズムと産獄複合体―』(原著:Angela Y. Davis, Are Prisons Obsolete?)が岩波書店から刊行され、少し注目されましたが、映画にかぎらず、日本では刑務所が話題になることは通常ありません。私も、日本に官民協働(PFIPrivate Finance Initiative)方式による「民活」刑務所があることを知ってはいたものの、刑務所の実情や受刑者の健康と福祉については視野に入っておらず、したがって問題意識を持つことすら事実上ありませんでした。それが、Alexとの研究交流を通じて、徐々に変わってきました。というのも、Alexが、NHS退職と前後して、世界保健機関(WHOWorld Health Organization)が1995年に策定したEuropean Health in Prisons Programmeに当初からAdviserとして参画し、受刑者の健康と福祉の改善に力を尽くしてきていたからです。そして、その取り組みの一端を、折に触れて私に語ってくれていたからです。

 

Alexは、WHO Regional Office for Europeから2007年に出版されたHealth in prisons: A WHO guide to the essentials in prison healthの編者の1人でもあります。ただ残念ながら、AlexからHealth in Prisonsについて多くを学ぶ前に、彼が旅立ってしまいました。私はイギリスに多くのCool Heads but Warm Heartsの友人知己をもっていますが、なかでもAlexは、情に厚く、映画では「寅さん(男はつらいよ)」シリーズ、歌謡曲では「霧の摩周湖」が大好きで、容貌が少しばかり似ていたことから映画評論家の淀川長治さんの従弟を名乗る、日本びいきの英国紳士―厳密にはScottish Gentleman―でした。

 

私は、去る430日に40年余り務めた職場を定年退職し、51日に古稀を迎えました。こうした人生の節目で、およそ20年間にわたって若き日に大変お世話になった慶應義塾保険学会のHP上の本欄に、Dr. IgarAlexとの楽しかった知的交流余話を掲載していただけたことを、不思議に思うと同時に、心から感謝します。

 

 続く

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