商学博士 真屋尚生
「法螺(ほら)を福沢、虚(うそ)を諭吉(ゆうきち)」と揶揄されたこともある福沢先生には到底及びもつきませんが、大真面目のホラ話をさせていただきます。
まず読書について:学生時代・若い時代に、いかなる読書をすれば、よいか。答えは簡単です。近頃巷に氾濫している、その圧倒的多数は共著の、(保険関係の)教科書や参考書などを読む暇があれば、生涯の座右の書となりうる古典と向き合うべきである。これにつきます。むろん、年輪を重ねてから、古典と向き合ってもけっして遅くはありません。年齢とともに深い読み方や多様な解釈ができるのが、古典の古典たるゆえんです。それに比べると、短期間のうちに内容の多くが陳腐化していく可能性が高い、そうした水準の教科書や参考書の類の大方は、せいぜい一夜漬けの試験勉強用といったところです。
歴史の評価に堪えうる優れた教科書や参考書もありますが、出会うことは稀です。たとえば、初学者である学生諸君を相手に、保険の歴史を正確にわかりやすく語ることは至難の業であり、私が知るかぎりにおいて、それができる保険学者はほとんどいない、といってもけっして過言ではありません。むろん、私にもその自信はありません。なぜならば、歴史を一般化して語るには、広範多岐にわたる膨大な歴史的知識の蓄積と、それを抽象化して表現できるだけの学識と文章力が不可欠だからです。ゆえに概説(書の執筆)は、その分野での「賢人」にのみなしうる作業といわれてきました。浅薄な知識と独断に基づく概説(書)の執筆は、その対極にあります。大学教授=賢人ではありません。Cool Headで自分の周囲を見回してみてください。今は思い当たらなくても、そのうち気付くはずです。
*「歴史の一般化」については、40年来の友人・竹内幸雄君との対話から有益な示唆を得ました。彼は、経済史家にして、イギリス史研究を大転換させたジェントルマン資本主義(Gentlemanly Capitalism)論に関する日本における第一人者で、『保険の本質』で学界に一石を投じられた明治大学の印南博吉先生のゼミナール出身です。
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では、どのような古典を読むべきか。冷めた頭脳を鍛え、温かい心を養うための必読の書を、私の偏った読書歴の中から選ぶとすれば、とりあえず以下の著者による作品です。イソップ(Aesop)、アリストテレス(Aristotle)、プルターク(Plutarch)、モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne)、セルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra)、シェイクスピア(William Shakespeare)、モンテスキュー(Charles-Louis de Secondat, Baron de la Brède et de Montesquieu)、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goet)、スミス(Adam Smith)、スタンダール(Stendhal)、ディケンズ(Charles Dickens)、ブロンテ姉妹(Brontë Sisters)、マルクス(Karl Marx)、トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)、マーシャル(Alfred Marshall)、ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle)、ケインズ(John Maynard Keynes)に、漱石、鴎外、一葉、などの著作を繙いてみてはどうでしょう。
『フランクリン自伝(Benjamin Franklin)』『ミル自伝(John Stuart Mill)』『奇跡の人ヘレン・ケラー自伝』『わが半生(Winston Churchill)』『強制と説得(William Henry Beveridge)』『折りたく柴の記(新井白石)』『福翁自伝』『死線を越えて(賀川豊彦)』『自叙伝(河上肇)』『元始、女性は太陽であった:平塚らいてう自伝』などに挑戦するのもよいでしょう。いずれも、冷めた頭脳を鍛え、温かい心を養うのに役立つはずです。
一念発起し、本格的な読書に楽しみながら挑戦しようというのであれば、拙著『学び心遊び心―古典/名著/傑作/快作と人生/教育/社会/経済―』慶應義塾大学出版会が参考になるかもしれません。ただし、この本は非売品です。
映画や(時間的・空間的な制約があるうえ、入場料が高いのが難点だが)演劇の鑑賞だって捨てたものではありません。少なくとも人間としての幅が広がることだけは保証します。ただ「幅が広がって、どうなんだ」といわれると、「あれこれいう前に、やってごらんなさい」と答えるしかありません。
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『聖書』「ヨハネによる福音書」には、「言(ことば)の内に命があった」(共同訳聖書実行委員会『聖書新共同訳旧約聖書続編つき』日本聖書協会)とあります。『万葉集』では、柿本人麻呂が「しき島の日本(やまと)の國は言靈(ことだま)のさきはふ國ぞまさきくありこそ」(佐々木信綱編『新訂新訓万葉集下巻』岩波書店)と詠っています。『聖書』や『万葉集』の世界の対極にある、花札賭博では役立たずの8・9・3の札の組み合わせに由来する、ともいわれるヤクザ(博奕打ち・博徒・渡世人)の世界では、言葉(遣い)一つで、指なら軽いほうで、命を失うことさえあった/ある、という。いつの時代においても、どのような世界で生きるにせよ、言葉は大切にしなくてはなりません。
大著『博物史』Histoire naturelle, générale et particulièreで、また「ビュフォンの針」Buffon’s needleでも知られるビュフォン(George-Louis Leclerc, Comte de Buffon)は、「文体は人物そのものである(文は人なり)」といっています。絶対的な読書量が少ない人間に、まともな文章は書けません。文章家は間違いなく読書家であり、自然科学系も含むが、主として人文社会科学系の偉大な学者・研究者の土台は読書の質と量によって築かれている、といって過言ではありません。
ところが悲しいかな現実には、お粗末な学者・研究者もどきが分野を問わず跋扈しています。しかも、これらの「もどき」諸氏、なかんずく「似非」大学教授の多くは、真の向上心と知的批判精神に欠けているため、「過てる相互扶助の精神」すなわち「過てる温かき心情」を発揮し合って、徹底した学問論争を忌避することに汲々としており、大学によっては手の施しようがない、というに近い惨状を呈しています。被害者は、これらの「似非」を見分ける能力と経験が乏しい初学者である学生諸君です。こうした状況が続くと、学問も教育も疲弊し、したがって大学が知的に荒廃し、学界が馴れ合いと虚名の社会へと堕落していきます。産業革命期の保険事業への論及を含むスミスの『国富論』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsでは、体験に基づく痛烈なオックスフォード大学教授批判が展開されており、愉快痛快です。
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Gresham’s Law「悪貨は良貨を駆逐する」を裏付ける歴史的事実を挙げることはさほど困難ではありませんが、幸いにして純正な学問・研究の世界においては、「謬論(悪書)が正論(良書)を駆逐する」などということは通常ありえませんし、あってはならないことです。しかるがゆえに、本欄のようなコラムにおいても、「職業としての学問」(Max Weber)に従事する大学教員・学者・研究者は自らが執筆した原稿に(大げさにいえば、命がけで)責任を持たなくてはなりません。ただ、人間だれしも過ちを犯すことはあります。その場合は、率直に非を認め改めれば、よいのです。
『論語』には「過(あやま)てば則(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(な)かれ」(吉川幸次郎『中国古典選3論語上』朝日新聞社)とあります。私のおよそ40年間の経験からすると、大学教員の世界ほど甘い世界はないかもしれません。何しろ私でさえ生き残ることができたのですから。
続く