福澤百助と大坂の豪商「加島屋」

大同生命保険株式会社 ビジョン推進室長

藤井 大輔

 

 

 NHKの連続テレビ小説「あさが来た」(2015年9月~2016年4月)では、五代友厚(ディーン・フジオカ)の誘いを受けて上京したヒロイン・あさ(波瑠)が、福澤諭吉(武田鉄矢)に出会うシーンが登場しました。

 

 あさのモデルは、明治・大正期の女性実業家・広岡浅子。前回のコラム『国民的人気ドラマで描かれた「生命保険の意義」』では、浅子が経営に参画した大阪の豪商・加島屋(ドラマでは加野屋)が、生命保険事業に参入するに至った経緯等についてご紹介しました。

 

 さて、福澤先生(1835-1901)と同じ時代を生き、後年は女子教育に心血を注いだ浅子(1949-1919)ですが、残念ながらドラマのように二人の間に交流があったという記録は確認できていません。しかし、福澤先生の父・百助と加島屋には密接な関係があったことがわかっています。

 

 1822年、百助は31歳(数え年、以下同様)のとき、廻米方(かいまいがた)として大坂勤務を命じられ、中津藩(現在の大分県中津市)の蔵屋敷を管理する役人として、年貢米や物産を収納し換金する業務のほか、加島屋をはじめとする豪商を相手に、藩の借財の交渉にもあたりました。福澤先生の『福翁自伝』にも、父親の仕事について「大阪の藩邸に在勤して、其仕事は何かといふと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池といふやうな者に交際して藩債の事を司る役である」と記されています。また、大同生命大阪本社(大阪市西区)で開催中の特別展示「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」では、中津藩蔵屋敷の記録を収めた判書帳(はんがきちょう)が一般に公開されています。

 

 <参考>豪商・加島屋の商い(大同生命特設WEBサイト)

 

 福澤記念館(大分県中津市)には、同じく百助の署名が入った中津藩の借用書と、百助に宛てた加島屋当主・広岡久右衛門からの手紙が保管されています。手紙には「寒中見舞いとして酒印紙(酒の商品券)を贈る」などと記されていますが、通常加島屋として贈答を行うのは大坂の蔵屋敷宛(あるいは大名宛)なので、当主が大名の役人個人に対して贈り物をするのは珍しいことであり、よほど百助とは親しかったと考えられます。いずれも1833年頃のもので、福澤先生の姉・礼が嫁いだ中津市内の民家で、襖の下張りから見つかったとのことです。

 

 さらに、2015年11月、奈良県橿原市で加島屋の借用書や広岡浅子の手紙など、約1万点の史料が発見され、その中には百助の署名のある中津藩の借用書も含まれていました。加島屋研究の第一人者である髙槻泰郎・神戸大学経済経営研究所准教授によると、加島屋は18世紀中期以降、蔵元業務から手を引き、以後の事業を大名貸しと入替両替に特化しましたが、中津藩については、明治初年に至るまで蔵元業務を継続していたとのことです。また、加島屋の経営文書の中で、大名の名前が列挙される場合、奥平家(中津藩)と毛利家(長州藩)は別格扱いとなっており、百助が仕えた中津藩と加島屋が特に親密な関係にあったことが偲ばれます。

 

 さて、福澤先生は1834年12月12日、大坂の中津藩蔵屋敷で百助の次男として生まれましたが、その翌々年に百助は亡くなっています。その後、残された家族は母子6人で中津に帰郷。福澤先生は、貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、1854年、19歳で蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励みました。そして1858年、藩命により江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾のはじまりです。

 

 一方、浅子が誕生したのは1849年。福澤先生の『学問のすゝめ』が発行されたのは1872年のことであり、読書好きで知られる浅子が同書を目にしていたことも十分に考えられます。慶應義塾を創立した福澤先生と、日本女子大学校の創立に尽力した浅子。ともに教育に対する想いの深い二人は、同じ未来を見ていたのかも知れません。

以上

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